ご当地レポート

大牟田大蛇山祭り

■大牟田の勇壮な夏祭り

おまつりの期間中は約40万人の人出で賑わうおおむた「大蛇山」まつり。始まりは三池地方の祇園社の祭礼に伴う行事で、はっきりとした文献はありませんが、寛永17(1640)年に三池祇園社が建てられ、寛政3(1791)年の文献には地域の祇園さんのお祭りのことが書かれていますので、江戸時代の前期から中期にかけて始まったと考えられています。
山車に人が乗り、太鼓や鐘を打ち鳴らしながら、町中を練り歩きます。この山車のことを「大蛇山」と呼んでいます。大蛇山は、長さ約10メートル、高さ5メートル、重さが最大3トンにもなり、木製の山車に和紙、竹、わら等を組み合わせた、頭・胴体・しっぽをつくり、大蛇のように飾りつけがなされます。この勇壮な大蛇たちが、街の各所で、祭りに、そして人々の心に火をつけていきます。

■火を噴く大蛇に、奮い立つ引手

毎年7月、大牟田の夜空はあかあかと燃え上がります。三池祇園宮(本町)、三池藩大蛇山三池新町彌劒神社、大牟田神社第二区祇園、第三区祇園八劍神社、本宮彌劒神社、諏訪神社など、各地区から繰り出される『大蛇山』。笛や太鼓の音、代々に伝わるお囃子が天高く響きわたる中、かっと目を見開き、裂けるように開いた口から七色の火を吹きながら、圧倒的な力強さを漲らせ我が物顔練り歩く大蛇たち。何台もの山車は、それぞれ200人~300人もの引き手の汗と情熱によって生命を吹き込まれ、大牟田の夏と人々を祭りの渦の中に飲み込んでいきます。

■遠い昔から守り続けられた祭り

300年以上も前にさかのぼると推定される大蛇山の起源。いくつかの言い伝えも残されています。
大蛇山は、こうしたはるかな時を重ねて、古いしきたりと伝統の技術で受け継がれてきた祭りです。竹材の枠に何重にも和紙を張り合わせて作るという、昔ながらの製法が今も守り続けられ、同じ山車はふたつとありません。毎年毎年、それぞれに意匠を凝らし、より迫力ある大蛇山を作るために努力が重ねられているのです。

■1年間の無病息災を祈って

大蛇の大きな歯に、子どもを噛んでもらうと、その子の1年の無病息災が約束されると伝えられています。また、祭りが終われば、すぐに山崩しが行われます。気持ちよいほどに潔いこと、1年の無事を祈念しながら両目だけが神前に奉納され、大蛇山はその姿をきっぱりと消してしまいます。大牟田の人々は、過ぎ行く祭りを惜しみつつ、大蛇山の一部を取り合い、お守りとして家へ持ち帰っていくのです。

■大蛇山って??

三池地方に伝わる「ツガネと大蛇の物語」は、水神信仰が古くからあったと思われます。
蛇や龍を水の神の象徴とする水神信仰、祭神を悪病よけや農業の神とする「祇園」、農業に関係するこれらの信仰が絡み合い、祇園のお祭りに大蛇が取り入れられ「大蛇山」ができたと考えられます。

■大蛇の歴史

記録によると、1852年(嘉永5年)三池祇園のお祭りで、30人が山をひき、製作には竹、角縄、煙硝,、硫黄が使われていて、これが原型のようですが、しきたりとのことですので、始まりはお宮建造の1640年以降、1791年の間と考えられます。祇園の祭りとしては珍しく、この地方独特の祭礼行事だと言えます。かませの画像
三池には新町(旧三池藩)と本町(旧柳川藩)の祇園があり、祭りで張り合ったようです。  明治4年頃、現在の本町5丁目の祇園で、三池祇園の大蛇山に習い作り始め、大牟田の各区に広がり六山になりました。現在、大牟田では十数山が作製されています。 以前は、祭りが終わった後、勇壮に山の取り崩しと目玉争奪戦が繰り広げられ、大蛇の左目を奪い合いました。 人々は壊れた大蛇の破片を軒先に飾り無病息災・家内安全のお守りにしました。戦後禁止となり、現在では安全に配慮して、一部の地域において子供たち目玉とりがとり行われています。
また、幼子を大蛇にかませ健康を祈ります。

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